青小代打掛流大鉢
白小代花入
黄小代水差
 安土桃山時代には、戦国大名に茶の湯が流行した。「冷(ひ)え、凍(し)み、寂(さ)び、枯(から)び」といった室町時代以来の美意識が発展し、千利休の「侘茶(わびちゃ)」の世界が重んじられるようになった。朝鮮の役が終わると、戦国大名たちは、朝鮮から帰化した陶工に命じて自国に御用窯を開く。加藤氏の小代焼、毛利氏の萩焼、細川氏の上野焼、黒田氏の高取焼、島津氏の薩摩焼は、ほぼ同じ頃に始まっている。

加藤清正の御用窯として開窯
 小代焼の発祥は、荒尾市府本字古畑で発見された加藤清正の御用窯、古畑窯跡とされている。ここは陶土として良質な粘土層がある小岱山のふもとにあたり、周辺には古墳時代から平安時代まで100個所にのぼる須恵器の窯が点在した場所である。古畑窯は、朝鮮・井土(韋登/いど)村の陶工、新九郎によって開かれたとされており、2001年には登り窯の跡が見つかって、その後の発掘調査が待たれている。
 清正が没すると、新九郎は筑前黒田藩の「高取焼」に移り小岱山を去る。「高取焼」初代の八山は新九郎の娘婿で朝鮮・井土村の出身であった。やがて加藤忠広が改易となり、細川忠利が豊前から肥後に転封されると、豊前の陶工集団のいくつかが肥後に拠点を移した。新九郎の弟子筋にあたる陶工集団もこのとき小岱山に移ったと考えても不自然ではない。

古小代の窯元
 小代焼は、牝小路(ひんこうじ)家初代の源七と葛城(かつらぎ)家初代の八左衛門が焼物師を命じられ、本家の当主のみが焼物職を行う一子相伝(いっしそうでん)のかたちで 代々受け継がれ、両家は瓶焼(かめやき)窯を開いた。時代を経て、山奉行の瀬上(せのうえ)氏も窯を開く。他藩の焼物の流入に危機感を覚えた藩が産業振興策として支援していたとされる。一に腐敗しない、二に生臭さが移らない、三に湿気を呼ばない、四に毒を消す、五によって延命長寿を得られる。以上五つの徳があるとして、瀬上窯は「五徳(ごとく)焼」の名称で小代焼の5つの効能を売り込んだ。幕末には、瀬上窯から南関町に野田窯が独立開窯し、「五徳焼」との区別のため「松風(まつかぜ)焼」と称した。松風の関とも呼ばれた近くの関所に因んだ名と思われる。

社会変化と小代焼の復興
 明治になると世の中がかわり、小代焼は苦境の時期を迎える。廃藩置県後は藩による買い上げがなくなり、御用林からの薪の入手が困難になった。11代続いた牝小路家は明治半ば頃に、葛城家の11代目も大正期に廃業、瀬上家は窯を賃貸し陶業経営をやめてしまう。野田家は窯を維持していたが日中戦争に応召し昭和13年頃に窯を閉じている。
 戦争の時代をはさんで小代焼は苦境の時期を脱し、復興の新たな担い手が出現する。島根県の石見焼で学んだ近重治太郎氏は、昭和6年、熊本市に健軍(たけみや)窯を開き、小代焼の伝統的作風の復興につとめた。窯は2代目の眞氏に受け継がれ、現在3代目も育っている。また、ここでは、ふもと窯の井上泰秋氏や松橋(まつばせ)窯の長木實氏が学んでいる。昭和21年には城島平次郎氏がしろ平窯を開窯、ここでは末安(すえやす)窯の末安孝登氏と岱平(たいへい)窯の坂井政治氏が学ぶ。昭和43年に開窯のふもと窯では、太郎窯の福田安氏、中平(なかでら)窯の西川構生氏、一先(いっさき)窯の山口耕三氏が学んでいる。また、昭和48年には福田豊水氏が瑞穂(みずほ)窯を開き、ここでは小代本谷(ほんたに)ちひろ窯の前野智博氏が学んだ。昭和63年には、野田家の子孫、野田義昭氏が約50年の時を経て松風焼野田窯を再興した。

小岱山麓は焼物のふるさと
 小代焼は、小岱山で産出される粘土を主原料にして高温で焼き上げられる。独特の釉薬は、ワラ灰・木灰・長石が中心で、素朴で自由奔放な流し掛けが特徴のひとつである。2003年には国の伝統的工芸品に指定された。小代焼としては、熊本県各地で現在12の窯元が互いに研鑽を重ねている。
 小岱山は古くからの焼物ふるさと。この山のある荒尾玉名地域は、小代焼の伝統にとらわれない窯元も多く、熱心に作陶に励んでいる土地柄でもある。


参考文献 第二十五回熊本の美術展 小代焼/熊本県立美術館
     小代焼ふもと窯 井上泰秋/熊本日日新聞情報文化センター
     日本やきもの史/矢部良明 監修 美術出版社



登り窯での本焼き
登り窯は、天候の影響や火加減によって焼成にムラがでる。火と語り合うように薪の投入を加減しながら1,250〜1,300度の高温で焼くと、仕上がりは奥深い美しさを湛えた土味を出してくれる





取材に協力していただいた、小代焼ふもと窯(荒尾市)の伝統工芸士 井上泰秋 氏


小代焼窯元の会
TEL.0968-66-0939



ホームに戻る






無断転載禁止

「季刊 旅ムック」発行元
エース出版
mail@tabimook.com