水前寺成趣園は、清らかな湧水が池を満たす出水神社の境内地。出水神社は、西南の役の翌年に焼け野原となった熊本の町の復興を図るため、人心のよりどころとして細川家の歴代をお祀りし、旧藩主を崇敬する有志によって創建された。熊本の守護神、文武の神、産業の神様として、その神徳を慕われている。

細川家歴代を祀る出水神社
 戦国時代を生きぬき江戸時代から明治の廃藩置県まで藩主として大国肥後を治めた細川家歴代。出水神社には、肥後細川家の初代、細川藤孝(幽斎)公、二代忠興(三斎)公、三代忠利公、八代重賢公の四柱を主神として、歴代藩主と二代忠興(三斎)公の正室玉姫(ガラシャ夫人)がお祀りされている。
 清和源氏の流れをくむ足利幕府の管領、細川頼之公の弟、頼有公を始祖とする武家でありながら、細川藤孝(幽斎)公は、和歌に優れた当時最高の文化人で、古今和歌集の奥義を後世に伝える「古今伝授」を託された。二代、忠興(三斎)公は、千利休の高弟で利休七哲のひとりにあげられる茶人。「肥後古流」を奨励して熊本に茶の湯の文化を残した。お国替えにより豊前小倉から肥後熊本城の城主となった三代、忠利公は、宮本武蔵を熊本に招聘、水前寺成趣園のもととなる「国分の御茶屋」を設ける。この庭園は、五代の綱利公の時代まで約80年をかけて大規模に造成され「成趣園」と名づけられ園内には多くの東屋が設けられた。八代、重賢公は、藩校「時習館(じしゅうかん)」、医学校「再春館(さいしゅんかん)」を開設、また新しい刑法を制定し、産業を奨励して、宝暦の治とよばれる大改革を行い、細川家中興の祖となった。
 細川家は代々、武道、和歌、茶道、能楽等に堪能で文化の伝統を熊本にもたらしている。

関ヶ原の合戦に翻弄された細川家
 細川家は、戦国の世とはいえ、関ヶ原の合戦に大きく翻弄された。
 合戦の当時、丹後の田辺城を居城にしていた細川藤孝(幽斎)公は、徳川方につくとたちまち石田三成方の大軍に城を包囲され、困難な籠城戦をしのいだ。合戦の直前、後陽成天皇の弟宮、智仁親王に古今伝授を始めたばかりだったため、藤孝(幽斎)公が亡くなれば平安時代からの正統な古今伝授が途絶えてしまうため、天皇は度々田辺城に使者を遣わして和議を勧告、やがては勅諚をもってこの籠城戦は終わる。籠城が60日に及んだことは石田方の戦力を田辺城に引きつけることで関ヶ原の合戦の形勢を徳川方有利にした。
 忠興(三斎)公が出陣した後、夫の留守宅を石田方の軍勢に包囲されたガラシャ夫人は、石田方に人質として大阪城に入城するよう強要される。明智光秀の娘であったため、本能寺の変の後、夫から離縁、山に幽閉され、その後天下人となった秀吉に諭されて復縁した夫人である。その最後の決断は、夫の足手まといになることを潔しとせず、家臣に薙刀(なぎなた)で胸を突かせ、屋敷に火を放って壮絶な最期を遂げた。この事件で、石田三成の武将としての評判は落ち、夫人は命を賭して内助の功を示した。
 幕府を開いた徳川家は、以降、細川家を重んじ忠興(三斎)公とガラシャ夫人の子、忠利公を九州の地理的中心地、肥後54万石の藩主とする。


出水神社神紋(細川家家紋)の由来
 細川家の家紋は、織田信長公のすすめにより、二代、忠興(三斎)公と明智光秀の娘、玉姫(ガラシャ夫人)との婚姻が決まり、九曜(くよう)を定紋とすることが決まった。これは、以前に、信長公の小刀の柄に九曜のデザインがあるのを忠興(三斎)公が見てとても気に入っていたことを、信長公が知って与えたとされている。



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