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熊本偉人伝
トロリと甘い赤酒から時代は
キリッと濃醇な清酒へ 経験と勘による仕込みから
化学を取り入れた醸造へ 酒造業界の探究心が形になった
熊本県酒造研究所が誕生 現代の酒造りにも活かされる
「酒の神様」の知恵と技 シリーズ 熊本偉人伝 vol.1:宮本武蔵
vol.2:加藤清正(1)
vol.3:横井小楠
vol.4:加藤清正(2)
vol.5:徳富蘇峰
vol.8:夏目漱石(1)
vol.7:細川幽斎
vol.8:夏目漱石(2)
vol.9:細川忠興・ガラシャ
vol.10:五足の靴
vol.11:小泉八雲
vol.12:野白金一
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熊本偉人伝 野白金一
野白金一生没年:1876年(明治9年)12月18日〜1964年(昭和39年)10月22日
トロリと甘い赤酒から時代はキリッと濃醇な清酒へ
54万石の城下町として発展した肥後熊本。人多く物資も豊かなこの地では酒造りも盛んに行われ、加藤清正の入国以来、約300年間、熊本で酒と言えば赤酒を指していた。
野白は明治9年、島根県松江市の清酒も造る醤油醸造家の長男として生まれた。幼い頃から秀才であったが、病弱な子どもだった。健康上の理由から進学を思いとどまり、家業を手伝い始めたのが好機となる。蒼白い顔はみるみると血色がよくなり、健康回復と同時に勉学の意欲も再びわき上がり、家業を継ぐことも考えて東京高等工業(現・東京工業大学)の応用化学科に入学。首席で卒業し、明治34年松江税務管理局(監督局の前身)に就職、郷里の松江で酒造りの指導者として歩み出した。 ![]() 熊本市川尻に設立された頃の熊本県酒造研究所(明治後期)。最前列左から3番目が野白(33歳頃)、4番目が吉村和七 明治41年、熊本の清酒を発展・増産させるには、品質の改良が第一。そのためには、研究所を設置して、熊本の風土に合った酒造りを模索しなければならないと、酒造メーカー自身から進歩的な声が上がってきた。野白が蒔いた種が芽吹いた瞬間だ。しかし、研究所をどこに造るのか、できた酒はどうするのかという問題が浮上。しかも、研究所がどういう結果をもたらすのか、不安材料は山盛りだ。この時、手を挙げたのが、熊本市川尻にある瑞鷹だった。当時、吉村彦太郎・和七の兄弟で営んでいたが、特に弟の和七が熱心に取り組み、蔵を増設し、仕上がりが悪かろうができた酒は吉村家で引き取ると決意を見せた。こうして瑞鷹の酒蔵の一画で、熊本県酒造研究所が明治42年8月に産声を上げた。 ![]() 昭和16年に熊本酒造組合より建立された胸像(熊本県酒造研究所内)。存命中に建立された事からもいかに熊本県人から感謝されていたかが伺える(像の前での記念写真 矢印が野白64歳頃) 昭和60年頃、酒造関係者の間でよい酒ができる条件として「YK35」という言葉が広まった。Yは酒米の山田錦、Kは熊本酵母、35は精米歩合を指す。この酵母は、野白が香露の蔵付き酵母から分離させたもので、昭和26・27年頃に誕生。熊本酵母を使った吟醸酒はことさら香りがよいと、杜氏から杜氏へ県内外に広がり、協会9号酵母として日本醸造協会が全国の蔵元へ頒布するようになった。ほかにも、麹室の空気を換気する「野白式天窓」、サーマルタンクの原形と言える「二重桶方式」、醪を入れた袋を吊り下げて酒を搾る「首吊り法(袋吊り法)」など、野白の創意工夫は業界誌などで公開し、全国の酒造りに用いられていった。いいと思ったものは後輩の研究でも外国の理論でもどんどん取り入れ、自分のアイデアは誰にでも教えるなど清酒品質向上の為に生涯を捧げた。昭和39年、87歳でこの世を去るまで、技術者として進歩し続け、愛酒家であった野白は、多くの仲間から、そして現在の酒造家からも「酒の神様」と尊敬され続けている。
取材協力/瑞鷹株式会社
株式会社熊本県酒造研究所
参考文献/酒の神様野白先生(野白先生謝恩刊行会発行) |