
|
熊本偉人伝
細川家を盤石たらしめた
文武両道の名将 最愛の妻を幽閉する
苦渋の決断 ガラシャの苦悩を
救ったキリスト教 武将の妻として
迎えた壮絶な最期 熊本の地で再び
夫婦水入らずに 関連スポット 泰勝寺跡・立田自然公園
熊本県立美術館本館・
永青文庫展示室 島田美術館
熊本県伝統工芸館
八代神社(妙見宮)
八代城跡
シリーズ 熊本偉人伝 vol.1:宮本武蔵
vol.2:加藤清正(1)
vol.3:横井小楠
vol.4:加藤清正(2)
vol.5:徳富蘇峰
vol.6:夏目漱石(1)
vol.7:細川幽斎
vol.8:夏目漱石(2)
vol.9:細川忠興・ガラシャ
vol.10:五足の靴
vol.11:小泉八雲
vol.12:野白金一
vol.13:加藤清正(3)
LINKS ![]() 郷土の味を楽しむ! 旅先グルメ、熊本の名店をメールで予約申込! 旅ムック HOME
熊本グルメ
熊本の郷土料理
熊本繁華街特選店
熊本夜の店ナイトスポット
熊本城
|
熊本偉人伝 夏目漱石・ガラシャ
細川忠興生没年:1563年〜1645年 ガラシャ(玉)生没年:1563年〜1600年
細川家を盤石たらしめた文武両道の名将
![]() 唐物茶入 利休尻ふくら(永青文庫所蔵) ![]() 破扇散図鐔(永青文庫所蔵)
加藤家に代わり、肥後熊本を治めた細川家。肥後 万石の初代藩主として明治まで続く細川家の礎を築いた忠利の両親が、文化人としても知られる細川忠興と、明智光秀の娘・玉(洗礼名ガラシャ)だ。 忠興にとって最大の危機となったのが、天正10年(1582)6月に起こった「本能寺の変」である。忠興は天正6年(1578)、織田信長のすすめにより明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚。ともに 歳で、当代一の美男美女の夫婦といわれるほど。政略結婚とはいえ、忠興の玉への愛情も深く、天正8年(1580)には長男・忠隆が誕生。順風満帆の新婚時代を送っていたが、忠興の岳父・明智光秀が「本能寺の変」を起こすことで状況が一変。光秀は藤孝(幽斎)・忠興親子に支援を要請するが、親子は応じず、さらに忠興は妻・玉を丹後国味土野の山中(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉してしまう。幽閉という形は取るものの、離縁までしなかったのは、忠興の愛情が残っていたからだろう。しかし、細川親子に協力を断られたことが、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。 ガラシャの苦悩を救ったキリスト教![]() 宝尽刺繍腰巻(島田美術館所蔵)常設展示中 玉の幽閉は2年にわたったが、その後、秀吉の取り成しもあって天正12年(1584)3月、忠興は玉を大坂にある玉造邸に戻した。この年、次男・興秋が生まれているが、忠興は時折、玉が幽閉される味土野を訪れていたという説もある。天正14年(1586)には、後に熊本藩主初代となる忠利が誕生。夫婦仲は戻ったように見えるが、「逆臣の娘」というレッテルを貼られた玉は、行動は制約され監視される毎日を送る。そのような変転の人生の中で、唯一の救いとなったのがキリスト教であった。侍女の清原マリアを通じて、キリスト教に出会い、その教えに心魅かれていく玉。外出も制約されていたため、教会へ行くのも困難であったが、オルガンティノ神父の許可を受けたマリアにより、天正15年(1587)洗礼を受けることになる。洗礼名はガラシャ。ラテン語で「神の恵み」という意味を持つ名前は、明治期にキリスト教徒が彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「ガラシャ夫人」と呼ばれることが多い。 関ヶ原合戦の直前にあたる慶長5年(1600)7月、徳川方に付いた忠興が上杉討伐のために不在となった隙に、西軍の石田三成は大坂の玉造邸にいたガラシャを人質に取ろうと屋敷を取り囲んだ。敵方の人質となっては、夫が安心して戦えない、他の大名にも影響を与えると考えたガラシャは、人質になることを拒否。キリスト教では自殺は大罪であったため、家老・小笠原昌斎に槍で胸を突かせて38歳の生涯を終えた。介錯した昌斎もガラシャの遺体が残らぬように屋敷に火を放ち自害した。 ![]() 細川忠興・ガラシャ夫妻、藤孝夫妻の霊廟「四つ御廟」 寛永9年(1632)、改易された加藤忠広の後に小倉から移封された忠利は、寛永14年(1637)に熊本城近郊の下立田に泰勝院(後に泰勝寺。現在は廃寺)を建立。祖父の藤孝(幽斎)夫妻とともに母・ガラシャの墓も移して供養した。
取材協力/熊本県立美術館
|