撮影/正木東男「天草灘の彩雲」



天草四郎メモリアルホール
tel.0964-56-5311
上天草市大矢野町中977-1
〒869-3603

天草島原の戦いのジオラマなどがある体験型テーマ館
入館9:00〜17:00
休館12月29日〜1月1日・1月と6月の第2水曜日
高校生以上600円・中学生以下300円


本渡市立 天草切支丹館
tel.0969-22-3845
熊本県本渡市船之尾町19-52
〒863-0017

天草のキリシタン関連・南蛮文化ほか、歴史的史料を展示
入館8:30〜17:00
休館12月30日〜1月1日
大人300円・高校生150円・小中学生100円




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「季刊 旅ムック」発行元
エース出版
mail@tabimook.com

天草四郎陣中旗
本渡市立 天草切支丹館 所蔵
 右の旗は、天草島原の一揆で一揆軍が軍旗としていたもの。この一揆でひとりだけ生き残った南蛮絵師の山田右衛門作が描いたとも、セミナリオといわれた宗教教育施設(神学校)で使用されていたともいわれており、ジャンヌダルク旗や十字軍旗とともに世界三大軍旗のひとつといわれ、国の重要文化財に指定されている。

天草四郎陣中旗/本渡市立 天草切支丹館 所蔵
 中央に聖杯のぶどう酒と聖体を表すパン、両脇には天使が祈りを捧げ、「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え」というポルトガル語の文字が書かれた「天草四郎陣中旗」。この旗の下に天草四郎を総大将とする3万7千の一揆勢は、幕府12万の大軍と戦い抜き、島原半島の原城に籠城して全滅した。この陣中旗には今も血痕や矢弾の痕が残っており、戦場の苛烈さとともに、迫害や抑圧によってこの世に希望を見出せなくなってしまった人々の凄まじい精神と想像を絶する結束力を物語る。
幕府体制の強化の裏側
 強大な軍事力を背景にして植民地政策を進める外国勢力と、宣教師が説く一神教の教理に大きな脅威を感じた三代家光の徳川幕府は、1612年にキリシタン禁令を、その2年後に伴天連追放令を発布して鎖国政策を押し進めた。かつてキリシタン大名が治めていた天草や島原には、依然大勢の信者がいたが、信者は残酷な拷問を加えられて棄教を強制され、宣教師はマカオへ強制送還された。徹底した迫害によって、多くの信者が表向き信仰を捨てた。
 幕府は、全国大名に参勤交代や様々な工事を命じ、また多くの大名を取り潰してお国替え(転封)を断行して、反対勢力を一掃し、大名の経済力を削いだ。肥後は、加藤清正の子、忠広が領地没収となり、新たに細川忠利が入国。天草は唐津の寺沢堅高が治める飛び地となり、島原では松倉重政が新領主となった。
 島原では松倉重政がそれまでの家臣のほとんどを島原に連れてきたため、島原に残った旧領主に仕えた侍たちは、生活のため次々と農民となって行く。そして参勤交代や幕府への賦役に加え松倉藩では島原城の築城にとりかかる。重政の子、松倉勝家の代になると、領民にはさらに重い年貢や税が課せられるようになり、払えない者にはむごい刑がかせられた。

「世に天童が現れる」
 最後まで天草に留まっていた上浦津の南蛮寺のママコス神父は、マカオに強制送還される際、次のような予言めいた文書を残していた。「25年後、天童が現れる。生まれながらにして諸道の知に達し、不思議な印を現す。天は東西の雲を焦がし、地には時期はずれの花が咲き、地は轟き(中略)、キリスト教が異教を呑み込み、天帝は万民を救うだろう」。毎年の天候異変で不作が続く領民にとって、天草四郎はここに書かれた天童を予感させる希望の存在となって行く。

宗教指導者として育てられた四郎
 四郎の父、益田甚兵衛好次は天草の大矢野島の出身とされ、この地を治めていた小西行長に召しかかえられていたが、関ヶ原の戦いに敗れてからは宇土郡江部村で農民となっていたとも長崎で浪人をしていたともいわれている。四郎の出生については、南蛮伴天連と長崎・丸山遊女の子としたり、豊臣秀頼の落胤という説もあり、謎のベールが幾重にも重ねられている。
 四郎の周囲の人々は、皆キリシタンである。父も天草の庄屋たちも、宣教師がいなくなった天草で、純真で聡明な四郎を宗教指導者に育てようとしたとみられる。四郎はキリスト教の教義を習得して、16歳の頃には祭礼をも執り行えるようになっていたという。生活の苦難や身内の不幸など、様々なことから心を痛めた村人を、魂にひびく言葉で癒し、時には長崎の唐人から習った手品によって神秘的な力を演出し、魂の救済を求める人々のカリスマに成長していったと思われる。

総大将 天草四郎大夫時貞
 天草四郎については、次のような記録が残っている。「天草大矢野の益田四郎時貞と申すもの年16歳…、稽古なしに書を読み、経の講釈をし、やがて切支丹の世になると説く。天より鳩を招き、手の上にて蚕を生ませそれを割いて切支丹の経文を取り出してみせる…。ほかにも不思議なことをいろいろとすると聞く」。記録からは、四郎がトリックスターであるように思われるが、これは一揆勢の情報戦術だったように考えられる。領主・代官に身内を殺されて恨みを抱く人々、惨めに殺されるより戦って死にたいという元武士、今の過酷な現実は棄教した自分たちへの神の罰だと思いこんでいる人々など、四郎の周囲には悩める人々が大勢いた。人々はもう一度、キリスト教の信仰に立ち返り、信仰という大義によって戦う道を選ぶ。

決起
 一揆の数年前から毎年、天候異変や台風などにより農作物の不作がつづいた。そして農民はむごい年貢の取りたてに耐えられなくなる。人々は各地で密かな集会を開き、1637年の6月頃、天草と島原の庄屋格の人々が湯島で談合する。この談合の後から「最期の審判の日が近い」などという廻し文が出回るようになり、ついに、集会に踏み込んだ代官が怒った村人に殺害されるという事件が起こる。そしてついに、島原と天草で大勢の領民が蜂起する。天草では一揆勢が唐津・寺沢藩の軍勢を破り、一時、富岡城を包囲するが攻略はできず、海を渡り口之津の藩の倉庫を襲って武器弾薬や食糧を奪い、原城に籠もる島原の一揆勢と合流する。

合戦
 1637年12月、幕府は5万余りの軍勢で原城に猛烈な攻撃を加えるが、攻略できない。この事態に幕府は老中、松平信綱の派遣を決定した。原城を攻める鎮圧軍はこの決定を恥じた総大将、板倉重昌が総攻撃を敢行して、多大の犠牲を出しながら、ついには鎮圧軍の大敗北に終わる。総大将の板倉重昌も戦死する。  着任した松平信綱は、新たに九州各地の大名の軍勢を加え、平戸のオランダ商館に依頼して軍船で海から原城に砲撃を続けた。圧倒的な幕府軍の攻撃に持ちこたえていた原城も、1638年2月28日の総攻撃でついに陥落する。一揆勢は皆殺しにされ、ついに四郎も討たれる。原城は本丸はもちろん石垣までが崩された。
 島原城主の松倉勝家はこの後、所領を没収され刑死。寺沢堅高は唐津藩の飛び地であった天草領の4万石分が没収となり、天草は幕府直轄地となる。一揆勢・鎮圧軍双方に多くの犠牲を払う戦であった。

◆天草四郎の墓碑は数カ所あって、「天草四郎メモリアルホール」が立つ大矢野島の殉教公園にも四郎像奥に墓碑が建立されている。墓碑には「寛永十五年二月二十八日、原城内の会堂に於いて細川藩士陣左衛門のために討たる。年、時に十六歳の蕾であった。これを弔い建立する」と刻まれている。四郎は、幕府がキリシタンを禁令にした経緯や弾圧のこと、棄教してしまったキリシタンたちの心情、作物の不作や重税になど、村人の苦境などについてもよく理解していたはずである。苦しむ人々の魂に触れることにより、16歳の少年でありながら四郎は、自らの使命を感じながら、重い十字架を背負って処刑の丘を登って行くイエス・キリストの姿を思い描いていたと思われるのである。
(文/中村まさあき)

参考文献
原史料で綴る島原天草の乱/鶴田倉造 編  九州キリシタン新風土記/濱名志松
島原の乱/助野健太郎  島原の乱/煎本増夫